二上神社宮司甲斐重寛と申します。今年平成30年5月に宮司に就任し、7年間奉職しました高千穂神社様から暇を頂きまして日々二上神社の神徳高揚に邁進しております。ウェブサイト(ホームページ)を作成して情報発信をおこなってまいりましたが、自分の気持ちを発信する場が無いことに気付きこの度『宮司のつぶやき』と題して掲載させて頂きました。平成30年師走

令和2年8月31日~9月にかけて
今回はつぶやきではなく二上神社の成り立ちに関わる私なりの意見を書かせて頂きます。「二上神社のお話あれこれ」のコーナーに書くことも検討したのですが確証がない記事を堂々と書く訳にもいかず、敢えて此処のコーナーで書きます。

{此山往古より天孫降臨の峰なる事、人の知る所也。然るに、諾册両神を祭りてより、二上大明神と称することと成りたり。}

最近、私の周辺で天孫降臨を始め日向神話の真実を追求する人々が増えているような気がします。何かしら大きな力が働いているような不思議な出来事が起きています。不甲斐ない私に神が真実を伝えようとして見えない力が働いているのでしょうか。これから書くことはあくまでも私の個人的な仮説ですが、かなり核心をついているのではないかと自負しています。
全国の神社にはそれぞれに由緒のある御祭神が祀られていますが、日本国創始に関わる神々を祀る神社が宮崎県北部地方にも沢山あります。数か月前、日向神話研究会なる方々が二上神社に来られた時、私なりの天孫降臨の解釈をお話ししたところ大変興味を持たれました。すると是非私共がつくった本を読んで下さいと仰り、先日ようやくその本を手に入れることが出来ました。道の駅高千穂に置いてありますとの事で行ったのはいいのですが、本の名前をちゃんと聞いていなかったので中々見つけることが出来なかったのです。道の駅の小さな出版物コーナーには意外と沢山の郷土にまつわる本や神楽、神社、神話の本があり、似たような内容の本も沢山あって結局その日は諦めて帰りました。それから暫く経って再び会の方々が訪れました。今度は本の名前をちゃんと聞き、後日ようやくその本を手に入れたのです。「日向神話の本舞台」タイトルからは、埋もれた史実を掘り起こし真実を後世に伝えたいという研究会の切なる思いが伝わってきます。
日向神話とは天孫降臨、日向三代、神武東征など日本国創始を描いた物ですが、何故かその場所がかなり古い時代から二か所存在するのです。それぞれに伝承されたのか、それともどちらかが偽りの伝承地なのかは今となっては確証できません。それだけ時間が経ってしまったのです。
臼杵の高千穂と霧島の高千穂二つの高千穂は其々に正しい伝承地として主張していますが時間の経過はそれ自体が歴史となり伝承となって行く為繊細で難しい問題になってしまい、未だ結論を出すことは出来ずにいます。会の皆さんは宮崎県北部地方の日向神話にまつわる伝承地をめぐり、正しい歴史の確証を行い後世に伝える活動をなさっているそうです。
その本を読ませて頂いて以前私が天孫降臨伝承について書いた事が更に真実味を帯びてきたと感じました。高千穂町内には三つの天孫降臨伝承地があります。一つは槵觸神社がある槵觸嶽(くしふるだけ)、次に熊本、大分、宮崎の三県にまたがる元は添嶽(そおりだけ)と呼ばれていた祖母山、そして二上嶽(ふたがみだけ)です。添嶽について私は調べたことが無いのでですがもしかしたら二上山とは重要な繋がりがある山かもしれません。
ここからは私案による天孫降臨伝承です。
二上山の男岳と女岳の山頂を真直ぐに結ぶとあるポイントに行きつきますが、そこには現在高千穂小学校が建っています。実はその場所こそ昔高千穂宮(高千穂神社)があった所だと云う説があります。高千穂宮(高千穂神社)はつまり瓊瓊杵尊がお住まいになった場所で将に天孫降臨の地に他ならないのです。後にその場所は御宮(高千穂神社)となり、何らかの事情で現在の場所に遷されたと思われます。現在の高千穂神社は立地的に不思議な場所に建っています。何故なら人々が住む町より低い所に在るからです。現在の高千穂神社は境内地こそこんもりとした丘になっていますが、町から見下ろす場所にあります。ただこの場所は二上山から旧宮地を結ぶ線上にあり、何かしらの繋がりは感じます。
(二上山を結ぶ線を二上ラインと呼ぶことにします)
何故二上ラインを重んずるのか?
高千穂神社と二上山は重要な繋がりがあるからです。ちょっと話が前後しますが二上山を祀る二上神社は元は山頂付近で祭祀が行われていたと伝えられています。今から1,122年前、平安時代の昌泰元年(西暦898年)に現在の地に下ろされ、その時二社に分社されています。その場所の選定に二上ラインが重要視されました。二上神社は女岳山腹へ、そして別れたもう一社は中登神社と言い男岳の後ろに連なる中登嶽の麓へそれぞれ鎮座しました。其々は二上ライン上に位置します。私は以前その不思議な位置関係について驚きはしましたが深く掘り下げるつもりはありませんでした。淡路島の伊弉諾神宮が東西南北の中心に神社があることをうたって重要な神社だと説明していますが、その重要性がいまいちよく分かりませんでした。最近イギリスの不思議な巨石が一直線に存在するのがレイラインとして有名になっていますが、二上ラインがレイラインなのかはよく分かりません。たまたま偶然なのかもしれませんし。
ある日五ヶ瀬町に住む妻の知人から中登神社の名前の由来について聞いた時愕然としました。そのまま読めば大概の人は{なかのぼりじんじゃ}と呼びますが、実は{ちゅうのぼりじんじゃ}と呼ぶそうです。凄く違和感を覚えるのは当然で、音訓入り乱れた読み方だからです。恐らく後から漢字があてがわれたのでこうなったと思われますが{ちゅうのぼり}という名前も不思議な名前です。そしてその知人の話では元は{ちほのぼり}と言うのです。
この時天孫降臨と二上ラインのパズルが解けました!!
なるほど!
瓊瓊杵尊は中登嶽を登り二上山男岳山頂にたどり着きました。その先には女岳、更にその先に丁度いい丘がありました。「この二つの山の頂を結ぶ先に見えるあの丘が良い場所ではないか!」そう言ったかは分かりませんが、実際にその後瓊瓊杵尊はその場所に住むこととなります。振り返ると二つの山が見えます。実際には二上山女岳ですが、よく見るとその女岳を縁取るように男岳が見えるのです。二上山は見る角度によって全く違った形をしていて、小学校の方角から見るときれいな三角形に見えますが90度方角を変えて見ると尖がった男岳と平坦な女岳が見えます。つまり女岳は鶏のトサカのような形をしているのです。降臨された場所から見える二上山は綺麗な三角形で更に女岳の後ろに男岳が絶妙に重なり町を見下ろしているのです。「この陰陽の二つの山は我々をこの地へいざなっていただいた尊き伊弉諾尊、伊弉冉尊である」「この山を二上嶽と名付け伊弉諾尊、伊弉冉尊を祀る也」こうして二上山信仰がはじまったのではないかと思われます。男岳の後ろに連なる尾根は後に瓊瓊杵尊が登った故事に因み{ちほのぼり嶽}と呼ばれるようになったと推測します。降臨地(現高千穂小学校)の目と鼻の先に、神代川を挟んで小高い山が存在します。そこは将に天孫降臨の地{槵觸嶽}なのです。槵觸嶽の山腹に鎮座する槵觸神社には高千穂小学校から児童の声がよく聞こえ如何に近距離に在るかが分かります。つまりその周辺に瓊瓊杵尊は降臨し住んだと思われます。
二上ラインは瓊瓊杵尊が歩んできた軌跡そのものだったのです。ですから高千穂宮遷宮にあたりその場所の選定には二上ラインでなければならなかったのです。更に二上神社、中登神社の創建地も二上ラインにのっているのです。
中登神社について、私はよく知りませんでした。二上山を信仰する神社は主に4社ありますが、その中でも主となる二つの神社は二上神社と三ケ所神社と云われて来ました。幼少期よりそう聞かされてきた経緯があり私は三ヶ所神社については特に疑問を抱くことはありませんでした。ひとつだけ父から聞かされていた話では「三ヶ所神社は造られる以前、別の場所に{あらまつりのみや}があった」そうです。何処にあったのか、何という神社なのかは特に興味もなく数年前までは二上神社と三ケ所神社が正当な分社だと信じていました。ところがある日スマートフォンの地図アプリで、二上ラインの反対側に中登神社を見つけた時二上山を挟んで二上神社の真反対側にある此の神社こそ分かれたもう一社だと直感しました。そう!分かれたもう一社、父の言う{あらまつりのみや}は今でも残っていたのです。ちょっと感動してしまい後日妻と一緒にその神社を訪ねたのですが中々見つからず、結局最後は地元の方に聞いて漸くたどり着いたのです。その時は神社の呼び名が{ちゅうのぼり}とは知らなかったので「この近くに、なかのぼり神社というところはありますか」と尋ねたところ「それは、ちゅうのぼり神社と言うんだよ」と言われ大変驚いたことが印象に残っています。かくして中登神社にたどり着いた私たちは道路の法面に造られた階段を登り社殿に向かいました。なんと小さな神社でしょう!二上の分かれ宮にしては随分差がありました。しかしそれは仕方ない事なのでしょう。何故なら三ケ所神社創建時に二上の御分霊は三ケ所神社に遷されてしまったのですから、茲には二上様は祀られていないのです。話に聞けば三ケ所神社創建時に五ヶ瀬町内の五社ほどの神社が統合合併されたそうです。その時神社によっては取り壊し更地になった所もあるらしいですが、中登神社の社殿も恐らく一度は無くなってしまったのではないかと思います。その後地元の村人によって小さな社が改めて建てられたのではないかと思うのですが、ちゃんと調査を行っていないのでそこははっきり分かりません。高千穂町の荒立神社は明治政府の政策により高千穂神社に併合された経緯があります。しかし其れを良しと思わなかった村人たちはこっそり社を建ててお祀りをしていたそうです。その後政策も緩和され、不憫に思われた当時の高千穂神社の宮司が御神像二体を還し現在の荒立神社として存在しています。荒立神社はつまり二社存在するのです。中登神社もそうした村人達の切なる思いで残されたのではないでしょうか。
こうして二上山・二上神社の御祭神は瓊瓊杵尊の命により伊弉諾・伊弉冉の諾册両神(だくさつりょうしん)が祀られることとなったのです。天孫降臨の山と謂われる二上山、なのに此処には瓊瓊杵尊がお祀りされていません。私はその事がずっと気になっていましたが、二上神社に専念しいろんな事を調べて行く中で漸く見えてきたものがあります。
真の天孫降臨の地は此処だと。
この山は瓊瓊杵尊がより尊い祖神様を祀った場所だったのです。其処には自らを祀る余地はありません、それは瓊瓊杵尊にとっても恐れ多い事なのです。さて、槵觸神社には瓊瓊杵尊がお祀りされています。更に御伴の神々もお祀りされています。天孫降臨の地槵觸神社ですから当然と言えば当然でしょう。でもそれは後の人々が「此処は天孫瓊瓊杵尊様が降臨された場所だから」という事なのです。
神社の御祭神とは、要するに時間軸では後の人々が祀っているのであり、たとえ神でも天皇でもどんなに尊くても基本的に自身を祀ることは無いのです。二上山は瓊瓊杵尊が諾册両神を祀り、槵觸神社は子孫が瓊瓊杵尊を祀ったのです。
実際に瓊瓊杵尊が降臨し住んだ場所は現在の高千穂小学校の辺りですが、そこを以って天孫降臨の地と為すべきか否か。後世に伝えるときに一番わかりやすいのは目印になる山が在る事、未来永劫揺るがない印として山を用いたのだと思います。そこで降臨地の近くにある小高い山に名を付け槵觸嶽と呼んだのだと私は思います。
では二上山を天孫降臨の山として呼ぶことは間違っているのかどうか?二上山を越えて現在の高千穂の地に入った瓊瓊杵尊御一行ではありますが、逆に二上山が無ければ今の高千穂の存在は無かったのかもしれません。他に別な場所が選ばれていた可能性があります。つまり高千穂を高千穂足らしめているのは二上山の存在なのです。二上山が無ければすべてが成立しないのです。ということは二上山こそ天孫降臨の山として相応しいのです。瓊瓊杵尊は重なり合う二上嶽を毎日拝んで職務を遂行したに違いありません。現代人は二つの山を見るときや、描くときには並べて見ますが、古代人は寧ろ綺麗に重なり合う二つの山に神秘性を感じたのかもしれません。
天孫降臨の地を名乗る場所がもう一つあります。霧島の高千穂です。以前来られた研究会の皆様は臼杵の高千穂こそが正しいと主張されていますが、先ほど申したように確証には至りません。双方様々な文献や地名などにその証拠を見出そうとしていますが、二上神社には古い文献がございません。それは凡そ200年ほど前に起きた火災によって失われてしまったのです。先ほどの天孫降臨のお話も推測や仮設の域を抜け出せませんが、しかし面白いことに全ての辻褄が合っているのです。なにより私はそこに注目しています。どちらかが正しいとすればどちらかは後からの主張ということになります。ではどうして既に存在するものを否定し自らを肯定しなければならないのかという問題になるのですが、そこには大いなる力が働いているからに違いありません。天孫瓊瓊杵尊はつまり天照大神の孫なのですから、大いなる神の孫も大いなる神として人々は崇め奉られていったのです。天孫にあやかる為是が非にも我が郷が天孫降臨の聖地であってほしいと願うのは当然でしょう。瓊瓊杵尊もその双方に出向かれたのかもしれません。そうでなければ降臨伝承は発生しないと思われます。つまりどちらにも少なからずの御由緒は存在するのです。しかし真の天孫降臨の地は一つです。その後現在の九州山地を旅する中で天孫降臨の伝承が各地に伝わってゆく事は自然の流れでしょう。では問題である唯一の天孫降臨の地は何処か?私は二上山が在る臼杵の高千穂が真の天孫降臨の地だと確信しています。仮に臼杵の高千穂が後付けで天孫降臨の地を名乗ったとしたら,,,よくぞそこまで見事に創り上げたと感銘を受けるでしょう。そう、辻褄を合わせることは容易ではないのです。つまり天孫降臨の地としての整合性を持たせるには並々ならぬ智恵と努力が必要なのです。更に正当化させるための圧力も必要でしょう。一番腑に落ちないのは此処臼杵の高千穂の民がそうまでして天孫降臨の地を正当化するのかという事です。またそのようなことが出来る民なのか。
天孫降臨が何故成し遂げられたのか?そもそも天照大神は子である天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)に降臨を命じたのです。ところが豊葦原水穂国(地上界)は荒々しい国つ神で支配され容易に降りて行く事が出来ずにいました。そのうち年を取り天忍穂耳尊は諦めざるを得なかったのです。そこで次に選ばれたのが天忍穂耳尊の子である瓊瓊杵尊です。天照大神の孫である瓊瓊杵尊は降臨を試みる事になりますが、やはり国つ神は抵抗します。国つ神は猿田彦命を遣わしてなるべく遠くへ、障りのない場所へ案内させます。漸くたどり着いたのが現在の臼杵の高千穂という件となります。つまり此処には荒ぶる国つ神は居ないのです。寧ろ親切な大鉗、小鉗(おおくわ、おくわ)と云う先住民が瓊瓊杵尊にアドバイスをしてこの地が住みよい処となったと言われています。高千穂町は現在でも親切で優しい人々が多い土地柄です。悪く言えばお人好しが多いかもしれませんね。その町民性は太古の昔より変わってなくて、宮崎県は全国一穏やかな県民性らしく高千穂町は県内一穏やかな町民性だそうです。つまり高千穂町民は日本一穏やかで優しく親切な町民となります。天孫族が入れる唯一の場所がこの臼杵の高千穂だったのです。「来るもの拒まず去るもの追わず」なのかもしれません。
片や霧島地方は隼人民族が支配する勢いのある郷です。このような場所にすんなり降臨出来るとは到底思えないし、民族性から考えても臼杵の高千穂が理にかなっています。また霧島を含む薩摩の国は全国制覇をも目論む勢いのある国であることも重要です。皇祖発祥の地でもある天孫降臨の地であることは公家、天皇家にも影響を与えるのです。国中にその存在を誇示する事が出来る為、天孫降臨の地は政治的にも優位に立てると考えたのではないか。そう思うのです。
現実はどうか?
臼杵の高千穂は天孫降臨の地であると主張はしていますが大々的な宣伝は行っていません。どちらかというと控えめに感じます。一方、霧島の高千穂は大々的に天孫降臨の地である事を宣伝しています。主張もかなり強いものがあるように感じます。もし臼杵の高千穂が後に造られたものであるならばもっと主張し宣伝をし全国に知らしめる行動を起こすはずです。これだけの由緒がある神社や地名が存在するのだから、並々ならぬエネルギーを使って働きかけた人物が存在するはずです。しかし臼杵の高千穂を支配した者にそれ程大掛かりな行動を起こした人はいません。でも仮に霧島の高千穂が後に造られた物であるならば、薩摩には島津家という財力も権力も有する武家が存在する。想像するに余りあると思うのは私だけでなのでしょうか?
語らずとも聖地は聖地。
ですから臼杵の高千穂は造られたものではなく必然的にそうなったと思うのです。私の私案には矛盾がが無く辻褄があっていると思うのですが如何でしょうか?一つは二上ラインの存在、次に{ちほのぼり}という地名、三つ目に太古より息づく高千穂町民の性格、そして何より天孫降臨伝承がある二上山・二上神社の御祭神が瓊瓊杵尊ではなく諾册両神であることです。
他にも興味深いものがあります。それは日向の風土記逸文の中に「槵日二上嶽に,,」という文があり、二上嶽の名前に「槵日」という枕詞がつけられているという事です。私はこれを文字通り日が串射すと解釈しました。要するに二上山を日が串射すように真直ぐに伸びた先を意味するのではないかと思うのです。実際に男岳と女岳に太陽が重なるのは午後2時から3時頃ですが角度はかなり高いので冬至でも男岳,女岳,小学校に太陽が重なるかは定かではありません。ただ、真直ぐに延びたという意味で使われたとしたら理解できると思います。つまり二上ラインの事を言っているのではないか?そしてもう一つ興味深いのが二上神社の旧拝殿の天井画です。二上神社の社殿は今から200年程前に起きた火災で全てが消失し、その後再建されたのが現在の御本殿と、今は稲荷社になっている旧拝殿です。60年くらい前に拝殿の建て替えが行われて、以前の建物は境内の左脇に移動されました。その後は神楽殿と言う名で存続され平成29年に稲荷社となりました。旧拝殿の天井、内壁には沢山の奉納絵画が残されていますが、その中にひと際大きい方位画が天井中央に在ります。干支で方角を表してあり拝殿正面の方角は丑に近い寅の方位となります。丑寅の方角は北東であり、鬼門の方角とも言われます。つまり二上神社は丑寅の鬼門を向いているのです。ただ私は鬼門がどうのこうのというより方位画が描かれていることに興味を持ちました。要するに方角には特別な意味があるんだよ!と、先人が伝えているかのようだったからです。
これは200年前に再建された拝殿の天井画です。焼失した以前の社殿は今から500年前に建てられたもので、当時はもっと沢山由緒にまつわるものが存在したに違いありません。それらすべてが失われたとき、再建に関わった人々はここに方位画を描き二上ラインの手掛かりになるものとして後世に伝えようとしたのではないか?

ここまで書いていく中で一つの疑問が浮かんできました。

臼杵の高千穂説を検証するにあたりはっきりとした証拠が無い事です。むしろ意図的にうやむやにされているようにも感じます。二上神社の天孫降臨にまつわる文献も火災で失われ、高千穂神社も降臨地である現小学校から遷され、二上山男岳山頂から出土した五輪塔も奪われています。
近年は表現の自由が法的にも許されているので様々な主張がなされていますが、明治時代以前臼杵の高千穂は天孫降臨の地を主張することはご法度だったのかもしれません。強い権力によって虐げられていたのではないかと感じるのです。
現在の槵觸神社は明治時代二上神社と呼ばれていました。その当時の二上神社は山附神社と呼ばれていました。山附とは二上神社周辺の地区名でありますが、大字名でも字名でもなく只単に地区の総称です。天孫降臨の重要な場所を濁すことでその地位を下げ主張しにくく仕向けられたのではないのでしょうか?

ここまで長々と自分なりに天孫降臨について書いてきましたが、実は高千穂神社は学者や有識者に調査を依頼し正式に天孫降臨の地であることを実証しています。昭和30年代から調査が始まり漸く昭和46年臼杵の高千穂は天孫降臨の聖地として認められ高千穂神社は旧官幣大社を意味する別表神社の社格へ格上げされたのです。でもそこに二上神社は含まれていませんでした。そして今でも霧島の高千穂は天孫降臨の地を主張しています。だからこそ私の主張が必要なのだと感じました。其処に先人たちはこっそりとヒントを隠してくれていたのです。
真の高千穂はどこか?
例えば、昨今我が国日本の領土は周辺諸国により著しい現状変更の危機に在ります。日本国の領土である北方四島、竹島、尖閣諸島などを、相手国は当然の如く我が領土だと主張しています。あってはならない事ですが現実に北方四島はロシアに竹島は韓国に占拠されていて、中国も虎視眈々と尖閣諸島を狙っています。
つまりやったもん勝ちがまかり通っているのです。なんと恐ろしい事でしょう。
もう一つ、二上山を崇拝する神社は主に4社あると言いましたが、本宮は勿論二上神社です。昭和20年代に郡内の神社調査が行われていますが、その調査書にも二上神社が本宮と記されています。ところが最近他の3社の中で本宮を名乗る神社が現れました。いきさつは、先ず昭和50年代二上山男岳、女岳の間を貫く六峰街道なる林道が抜けました。(私がその時宮司だったら絶対に建設を反対したでしょう。御神体の間を林道が貫けるなんてありえない!)その林道を利用し男岳山腹に奥宮なる社殿を造ったのです。それから30年経ったある日御朱印に二上山本宮と書いていたのです。なんでも奥宮は大昔からそこにありそこを再建した当神社が本宮であると言ってるみたいですが、先人達の取り決めを無視し尚且つ本宮まで名乗っています。二上神社は今から1,122年前に分社され麓で祀ると決められたのです。領土問題は国益のための争いですが、神社の場合はどうでしょうか?聖地を奪って本宮を奪って何になるのでしょう?そこには人間の欲しか見えません。つまり其れがお金になるのです。お前もそうだろう!と言われても仕方ありません。二上神社に専念し当初は神社でご飯を食べて行けるようになりたいと思っていました。私も少なからずお金儲けは考えていました。でも専念する事で二上神社を深く知ることが出来、真の歴史を伝えていくことが大事だとわかりました。史実は一つなのです。歴史に埋もれそうになった二上山が真の高千穂です。二上山が在ってこそ高千穂を高千穂たらしめているのだと思います。二上神社は立派な造りをしていますがさほど大きな神社ではありません。山奥にひっそりと佇む静かな神社です。伊弉諾・伊弉冉尊は九州の山奥から静かに日本を見守っているのです。瓊瓊杵尊から始まる日本を。

令和2年1月24日
おそらく常勤を始めて初ではないでしょうか?今日で3日目の不在中です。プライベートな用件でこんなに長く出社しないのは初めてです。若干罪悪感は有りますが、たまには神社を離れてみるのも悪くはないのかもしれません。

令和2年1月22日
正月気分もどこへやら、巷は寒風の中あくせく働く日常に、とっくの昔に戻っています。正月では無くイチガツなんですね!神社界は飾り物のお陰もあってまだまだお正月気分でいられます。
しくじり先生と言うテレビ番組があって、過去の失敗談を紹介して教訓にしましょうと言う趣旨の番組ですが。
まさに正月早々しくじりました。新年祈願の予約をすっかり忘れてしまい、本人からの問い合わせで気付きました。メモは非常に大事だと言う教訓です!なんでもない事!簡単な事!でも怠ったら非常に大変な事!おおごと!になります。
今年もしくじり先生か❗️❓

令和元年12月12日
夜神楽も無事に終わりようやく一息の時間です。やりたい事は沢山ありますが、やっただけ成果は出るけどやらなくても何も変わらないだけで何の問題も無い。ただ、やりたい事はお金が掛かる事ばかり!なのでその時点でやる気を削がれる。 
打ち出の小槌は中々見つからないもので、地道にやるしかないのでしょう。成し遂げたいのなら!

令和元年12月5日
遂に念願のインターネットが二上神社にやってきました!境内でWi-fi使えます。名前は(二上神社)でパスワードは(hutagami)です。
どうぞお使いください。
高千穂町役場の皆様ありがとうございます!困難な場所に光ケーブルを引いて下さいまして誠にありがとうございます。
町に少なからず還元出来る様に、多くの参拝者が訪れる神社を目指して頑張ります。
神社は宗教法人なので非課税です!実は自治体には何も恩恵が無いのです。でも参拝者の皆さんが町内で食事や買い物をすると間接的に町に還元できます。
高千穂峡、高千穂神社、天岩戸神社でもなく二上神社の為に訪れる参拝者が沢山増えて町に少しでも還元出来る様になったらなと思います。
実は僅かではございますが二上神社を目指して訪れる参拝者がいらっしゃいます。二上神社の魅力は私の想像を超えているのかもしれません。

令和元年11月27日
遂に二上神社に電話がやってきました!ひかり電話という種類ですが、町内全部ひかり電話です。加入電話とあまり変わらないと思います。現在は結構留守がちなので出られないことが多いかと思いますが、どうぞよろしくお願いいたします。実は私が望んでいたのは電話では無くインターネット回線の方です!今まで携帯電話でインターネット接続を行っていたのですがあっという間に通信量を超えてしまい大変でした!このサイトの更新も文字入力の時は通信を切って行い発信の時に接続するといった裏ワザを使いながら行っていたのですが、たまに接続しないで更新ボタンを押してしまいすべての入力文字が消えてしまうことも多々ありました、、(本当に泣きそうになった)ようやく快適なネット環境が整い満足しています。次は境内でWi-Fiが使えるようにします!しばらくお待ちください。既に社務所には一台設置してあるので社務所周辺で利用可能です。
いよいよ夜神楽が近づいてきました。今年は盛大にお祭りを行いたいと思いますます!!神楽保存会の皆さんも張り切っていますので見に来てください!
電話番号を忘れていました!  0982-83-1373 です。(イザナミ)と覚えて頂けるといいです。

令和元年10月29日
ようやく拝殿に絵を飾る事が出来ました。光ケーブルを引く場所の伐採、手水の元口の作り替え、実家の稲刈り、高千穂神社のご奉仕などなど。
即位礼にあわせて10月22日静岡県からわざわざ自ら車を運転してご奉納頂いた向笠友子様!
あれから1週間経ってようやく絵を飾る事が出来ました。
拝殿が非常に華やかになりました。ありがとうございます。
正に感謝の一言でございます。

令和元年9月17日
今年の夏は雨続きで苦労しました。あらゆる物がカビだらけになってしまい拝殿に掲げた絵も薄っすらカビが生えてしまいました。奉納者にはあらかじめ此処は湿気が多いのでカビが生える事がありますとは伝えてあるのですが、まさか僅か数ヶ月で発生してしまうとは思いませんでした。今年の夏は例年になく湿気が多い年で、温暖化の波がここにも影響を与えて来ました。札所、社務所は去年カビが発生したため除湿機を設置しましたが、もし無ければ大変な事になっていたでしょう。お守りお札も駄目になっていた事でしょう。
ようやく心地よい乾いた風が吹き始めました。穏やかな初秋の神社はとても居心地が良いです。。

令和元年8月30日
今日はもう一つ
9月3日の月次祭で絵の奉納式を行いますが、絵を描かれた方もわざわざ大阪からお越しになられるそうです。
つきましてはこの記事をご覧になった方で興味がございましたら是非ご参列下さい。
本当は一人きりで行う予定でしたが、折角来ていただくのに誰も居ないとちょっと寂しいのでここで皆さんにお願い致します。
よろしくお願いします。

令和元年8月30日
またまたご無沙汰です!
先日固定電話を神社に引こうと言うことになりまして役場に申し込みはしたのですが、NTTさんが引くのは困難だとおっしゃり現在作業が停まっています。
二上神社どんだけ山ですか!と言うお話です。役場も設置拒否は初めてだと困惑されています。あとは自力で引くしかないのかもしれません。神社の運営には様々な困難があるでしょうが、まさかそこで問題が発生するとは、、

ここは高千穂の秘境ですか?

令和元年7月19日
昨日の続きです。18日のつぶやきを先に読んで下さい。
無謀にも講習履歴を稼ぐ為福岡の雅楽講習会に参加したのですが、やはり場違い感はいがめ無くて非常に居心地の悪い2日間でした。実際知人に此処はあなたの来るところでは無いとハッキリ言われ,更に元宮内庁式部職の楽師さんに失礼だとまで言われる始末!幸いその人とは菅が違うのでその後問題にはならず、寧ろ龍笛グループは温かく接して頂いたので感謝しています。そんなこんなで取り敢えず2日間の講習履歴が付き3.5日になり残り0.5日ですが、丁度その時神社庁の講演会が有り半日の講習履歴を頂き、これで漸く中堅神職研修を受ける資格が与えられたのです。メデタシメデタシ!本来なら30年も神職やってたら最低でも10日位の講習履歴を持っているのですが、自分が如何に神職研修を怠っていたかが分かります。ハンセイ!ともあれその後伊勢で五日間の中堅神職研修を二回受ける事が出来、無事に年相応の神職としての体面が保たれる事が出来ました。
 実はここからが本題なのです。講習履歴の為に受けた雅楽講習会では結局今までと変わらずまともな音は出なかったのですが、少しだけコツを掴むことが出来ました。その後社務所で毎日練習していたらなんと無くそれらしい音が出る様になってのです。楽師さんの指導が良かったのか本物の音を聞いた事が刺激になったのか分かりませんが兎に角なんと無く吹ける様になったのです。二上神社の参拝者が少ない事も笛が上達する要因だったかも知れません。喜んで良いのか悪いのか?あれから一年が過ぎ相変わらず参拝者の少ない神社で暇があれば龍笛を吹きまくっています。でももうちょっとの所が上手く吹けません、音楽に精通している禰宜が(家内)駄目出しの嵐を吹きかけます。自分は気持ち良く吹いていても直ぐに駄目出しが出る始末!悶々としたまま日が経ち今年も梅雨に入ってしまいました。ただでさえただでさえ参拝者の少ない二上神社はこの雨で閑古鳥が鳴いています。更に追い討ちをかける様に今年も集落の道路改良工事が始まり平日の日中は迂回路を通らなければならず参拝者激減です。
 こうなったら龍笛を吹くしかない!!日供祭の後は笛の練習を飽きるまでやっていました。たまに吹いている最中に参拝者が来て恥ずかしい事もありましたが、毎日めげずに吹いていたらその時は突然やってきました。相変わらず音の感じが本物と違うのでちょっと吹き方を変えてみたその時でした。透き通る様な綺麗な音が出たのです。苦節30年プラス1年漸くまともな音が出る様になりました。(30年はほとんど吹いていませんでしたが…)あまりにも簡単な事だったので愕然としましたが、兎に角ちゃんと吹ける様になって良かった。この貴重な時間を頂いて神様に感謝!?漸く人前で吹ける様になりました。まだ曲を演奏するのはぎこちないのですが、リクエストがあれば吹いてみたいと思います。

令和元年7月18日
雅楽の楽器で龍笛という横笛があります。
思えば30年も前の話ですが、神職養成所で雅楽の授業がありました。三種類の楽器の中から好きな物を選んで良いのですが、先づ笙という楽器は安いものでも10万円するので即却下!篳篥は舌というリードも必要で更に緑茶に浸して湿らせなければならないので、面倒だから却下!消去法で値段もお手頃な龍笛に決定しました。週に一回、二年間教えて頂いたのですが最後までまともに音が出ず挫折、安易に飛びついた事に後悔しました。
あれから30年!たまに目についた時に吹いてみるのですが全く駄目で龍笛の奥深さを突き付けられました。そして去年、思わぬ形で龍笛を吹く事になるのです。いきさつは、神職は資格を取った後も様々な研修や講習会を受けなければならないのですが、それを殆ど受けて来なかった私は中堅神職研修を受講する資格がありませんでした。この中堅神職研修を受ける為には延べ日数で4日以上の講習会を受講していなければなりません。その時点で私はまだ1.5日しか受けておらず数ヶ月先の中堅神職研修を受ける為には2.5日の講習会を受ける必要があったのです。その時神社庁から雅楽講習会のお知らせが届いたのです。しかも2日間!渡りに船だとばかりに即申し込みました。ところがその講習会は元宮内庁の楽師から直接教えを請う上級者向けの講習会でした!       つづく

令和元年7月10日
シトシトと降り続く雨!ここ数年社殿に苔やカビが目立つようになって来ました。去年は札所内がカビだらけで大変な事になりましたが、今年は除湿機を設置して快適に過ごしております。でも昔はそんな物無くても快適だったし、梅雨でも家の中にカビが生える事は無かったのですが。段々と温暖化の影響で変わって行くのでしょうか?除湿機のない生活がありえなくなって来ました。

令和元年7月9日
梅雨空のスッキリしない天気が続きますが皆さん如何お過ごしでしょうか?この時期は参拝者もまばらで境内は蝉の声と川のせせらぎ、遠くで鳥のさえずりが聞こえてきます。以前から考えていた参集所の建設に向け大まかな見取図を作って見ました。兎に角二上神社で今必要なのは雨風と寒さをしのげる建物です。境内の限られたスペースに最大限で作りたいと思っていますが、果たしていくらくらいお金が掛かるのか素人の私には分かりません。取り敢えずこんな感じです。前面は全てガラス引戸で側面背面も可能な限りガラス引戸でで覆いたいと思っています。まだ構想中ですが皆さんに公開します。何か意見がございましたらどうぞ!

二上神社 参集所 平面図 (案)

六畳間の和室が二部屋と授与所、その周りを回廊のように土間が取り囲み建物前方側は桟の無い一枚ガラスの引き戸で囲み中からも境内の様子がよく見えるようにしたいと思っています。前面の土間は広めにとって靴を脱がなくても過ごせる空間になると思います。

令和元年7月4日
半夏生という言葉をご存知でしょうか?夏至から数えて11日目の日を言うそうですが、七十二候の一つで現在7月2日頃となっています。この時期にハンゲ、ハンゲショウという野草が生える時期で大雨が降ると言われています。気候変動が問題になってきていますが、やっぱり暦通りに大雨になりました。昔の人の知恵は今も息づいています。不思議です。

令和元年7月1日
昨日は6月30日で夏越しの大祓を斎行しました。二上神社では私の知る限りこの行事を斎行した記録がございません。一通りの神社祭祀は行うべきと思い昨年の暮れより大祓式を始めました。まだ禰宜と二人きりで略式ではございますが、少しづつ恒例行事を増やしていけたらと思います。

令和元年6月15日
最近つぶやきが少なくて申し訳ございません。梅雨に入って特に雨らしい雨が降っていませんでしたが、ここに来て漸く梅雨らしくなって来ました。二上神社のある山附集落はホタルの里としても有名で、この時期沢山のホタルが舞遊びます。実は今夜公民館主催のホタル祭りが沿道沿いの河川敷で行われます。しかしこのイベント雨に見舞われることが多く、今年も今現在雨が降っています。夕方には上がる予報なので準備は着々と進んでいると思いますが、役員さんは大変です。このイベントはホタルを静かに観賞するのではなく歌や演奏で人々が楽しむ本当にお祭り騒ぎのイベントです。
雨が上がり漸く飛び立ったホタル達には受難の一夜です。
(合掌)

令和元年5月28日
長らくご無沙汰してすみません。実は実家の田植えに明け暮れていました。山の中に小さな田んぼが沢山あって面積の割に手間が掛かります、10年ほど前に買った中古の乗用田植え機が非常に危険な乗り物で、農機具の中で一番危険な乗り物だと私は思っています。兎に角不安定な機械で坂道や田んぼの出入りは細心の注意が必要なのですが、一旦田んぼに入ってしまえば逆に安定して田植えが出来る機械です。ところがなんとその田んぼの中で横転してしまいました。なんともお粗末で恥ずかしいことですが、田植機もろとも泥まみれになってしまいその後なんとか事なきを得ましたが、誰も見ていなかったので助かりました。取り敢えず怪我無く田植機も無事で今年も田植えが終わり一段落と言ったところです。暫く神社を留守にしてすみません。またぼちぼちつぶやいてみたいと思います。

令和元年5月6日
終わってみればあっという間の大祭でした。
御代替わりと例大祭!あわただしい一週間でした。年毎に盛り上がるお祭り、自分の出来る範囲を超え始めている様に思います。皆様にはご迷惑をおかけする事が多々あったように思います。ご挨拶も出来なかった皆様大変申し訳ございませんでした。
来年は不備なく皆様が大神様とお過ごし頂けるお祭りにして行きたいと思います。
この度は例大祭にお越し頂きましてありがとうございました。大変でしたが凄く楽しいお祭りでした。

平成31年4月27日
例祭準備でつぶやく暇もございません。例年お祭りの2日前に準備する事が習わしで、毎年5月1日は村人総出で準備をしています。今年は天皇陛下の即位と改元が行われるので奉祝祭も行います。非常に忙しいです。連休に向けて広告を出してみたのですが今のところ普段と変わらないのはいい事なのか!⁇

平成31年4月18日
先日高千穂神社の例大祭にご奉仕させて頂きました。準備を入れて3日間のご奉仕で疲労こんぱいです。今度は当神社の番ですが、御代替りの奉祝祭や実家の田植え準備も始まり体がいくつあっても足りません。今年のゴールデンウィークはかなり忙しくなりそうです。

平成31年4月7日
今年も山桜が見事に咲きました。一年でほんのわずかしか存在を知られない不思議な木です。

平成31年3月29日
二上神社にも春が訪れました。
この可愛い葉っぱは桂の木です。境内の周りにはたくさん桂の巨木がありますが、開いたばかりの葉は可愛いハート型をしています。桂の木が一番輝いて見える時期です。桜も良いですが私はこの芽吹いたばかりの桂の木が好きです。
先月滋賀県の多賀大社に参拝に行きました。何故多賀大社かと言うと実は二上神社と同じイザナギ、イザナミの尊をお祀りしているからです。禰宜(妻)の要望でしたが行って良かったと思っています。昇殿参拝の後巫女さんとお話ししていたら、ふと髪飾りが目に飛び込みました。細長い枝葉の様なものが付いていたのです。聞けば桂の枝葉の造花らしく、宮司さんの提案で付けるようになったそうです。ハッと驚きました。二上神社に自生する桂の木の枝葉と同じ物が遠く離れた多賀大社で髪飾りとして使われているとは。何故桂の枝葉なのかは伺えませんでしたが、深いご縁を感じました。薄黄緑色の新緑は数日で出揃い濃い緑に変わります。今だけの貴重な輝きを見せる桂の木です。

平成31年3月17日
 春の嵐が吹き荒れる日々大地が目覚め動き出したようです。一日がかりで掃除した境内も元通りの有り様!神社を維持して行くのは大変です。この日常が大事なんでしょう。たかが掃除、されど掃除。神社はこの大いなる日常の繰り返し!何事も一日一日が大事という事でしょうか。

平成31年3月11日
今日は東日本大震災から8年日です。一生忘れられない大惨事でした。近親者を亡くされた方は何年経っても心が癒される事は無いのでしょう。更に辛いのは未だに発見されない被災者が2000人以上いることです。計り知れない苦悩の日々を過ごしている家族や友人達がこんなにたくさんいる事に心が痛みます。多くの行方不明になっている人達が早く発見されご家族の元に帰れる日を祈っております。
昨日は雨の初午祭となりました。恵みの雨、お清めの雨、解釈はいかほどにも有りますが私は鎮めの雨だと思いました。ふとそう思っただけですけど。  兎に角無事に終わって良かった。

平成31年3月5日
さて愈々3月です。忙しくなります。先づはお稲荷さんのお祭りですが、一年に一度しか無いのでしっかりご奉仕したいと思います。最近覚えたての龍笛を式中に吹いております。禰宜は舞を練習しております。今度の初午祭では二人で豊栄舞を奉納予定です。乞うご期待!

平成31年2月27日
平日はほとんど参拝者が来られません。やる事は沢山あるのですが、ちょっと時間を割いて。

ある日禰宜(妻)から折り紙を作りなさいと指示があり一緒に作り始めたのですが、説明書が分かりづらく二人とも挫折してしまいました。今日は一人でご奉仕しておりましたがふと折り紙に気付き再び挑戦。やや形は歪ですが無事に完成しました。
もうすぐおひな祭りですが、二上神社のおひな様はやっぱりイザナギ、イザナミ様でしょう。

平成31年2月21日

本日一人で焼納祭を斎行致しました。準備も大変でしたが、一人は非常に寂しいです。本来なら小正月の行事ですが、当神社は特に決まりはなく出来る時に行っています。ただ旧暦の小正月も過ぎてしまいそろそろ行わないとまずいので、一人ですが本日斎行致しました。漸くお正月行事が終わりました。今度は3月10日のお稲荷さんの準備です。社報三号を早く作れと禰宜(嫁)に急かされいる今日この頃です。ふ〜〜

平成31年2月16日

二上神社でこれから必要な物は沢山有りますが、参拝に来られた方はどのように思っているのでしょうか。このままでいいと言う人もいるでしょう、あれも必要これも欲しいと言う方もいらっしゃるでしょう。私も考えたのですが一番は参拝後に居場所がないことかなと思っています。美味しい水を汲む場所も欲しいし、札所も小さすぎて身動き取れません。でも一番は参拝後にゆっくり過ごせる参集所ですかね。
ということで参集所建設の構想を立てて居ます。社殿造りにするか数寄屋造りにするか、はたまた札所の様な造りにするかお金も無いのに構想(妄想)は膨らみます。

平成31年2月15日

長らくご無沙汰しておりました。早いもので2月も半ばになりました。油断しているとあっという間に時が過ぎてゆきます。今年は雪が少なくまだ雪かきをする様な降雪がありません。例年でしたら雪かきをしなければならない時期ですが、やはり暖冬の影響なのでしょうか。おかげで楽は出来ますが大手を振って喜んで良いのか心配です。

平成31年1月26日

風邪を引きました。数日寝込んでいました。神様申し訳御座いませんでした。参拝に来られた皆様申し訳ございませんでした。ようやく回復してご奉仕に励んでおりますが、なんと今日は初雪が降りました。病み上がりには大変こたえます。ついに極寒の季節がやって来ました。皆さん道中お気を付けてお越しください。

平成31年1月10日

太鼓口開けが13日に行われます。本来なら夜神楽を担当した地区で行われるのですが、昨年は中止となり社務所にて行ったので必然的に社務所で口開けも行います。と言うことは直会の準備、片付けも自分たちでやると言うことです。大変です。取り敢えず社務所の片付けから始めます。

平成31年1月8日

今年は元日から天候に恵まれ殆ど雨も降らず助かりました。ただ、気温は低くほぼ毎日氷点下で凍てつく寒さです。テントの中にストーブを置いて見たものの気休めにしかならず、来年はもう少し考えなければならないと思いました。極寒の二上神社は何せ居場所が無い!参拝者が気楽に立ち寄れる参集所がやっぱり必要だとつくづく思う今日この頃です。

平成31年1月7日

新年明けましておめでとうとございます。いよいよ平成の時代も残り4カ月となりました。明治生まれの人は5度目の元号となりますが、御代替わりは神社界にとっても大変忙しい年となります。奉祝の行事が数多く行われ関連事業も行われる事と思われます。二上神社もこれからいろいろと計画を立てて行きたいと思っております。
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

平成30年12月31日

激動の一年が過ぎようとしています。人生で一番不安定な時期だったんじゃないでしょうか。まだまだ来年もその状態は続くのですが、山奥の小規模な神社で自活するのは並大抵じゃない事は分かっていましたが、現実は厳しいものです。
それでも少しづつではありますが多くの参拝者に関心を持って頂き有り難く思っています。常駐していなかったら会えなかった皆さんに、よろこんで頂き凄くやり甲斐を感じています。まさに神様のお導きだと思います。これからもご縁を大切にしたいと思います。
良いお年をお迎えください。

平成30年12月14日

まさか私の作ったウェブサイトを楽しみにされてる人がいらっしゃるとは、嬉しいような恥ずかしいような。この場をお借りして御礼申し上げます。さて掲載したい内容は沢山ありますが私の中で一番気になっていたのがお稲荷さんです。「二上神社のお話あれこれ 」の中でお稲荷さんの話を掲載しました。これを語るのは気持ちの整理も必要なので、続きはしばらくお待ち下さい。あっという間に12月も半ばに、時間だけは容赦なく過ぎて行きます。

平成30年12月6日

 12月になりましたら急に寒くなって来ました。これが本来の気候なのですが、今年は秋になっても暖かい日が続いて突然の寒さに体がついていけません。年々寒がりになって来ている様な気がします。
さて、今年の夜神楽は氏子地域で起きました悲しい出来事の為規模を縮小して行われました。それでも御奉献やご参列をいただきました皆様には感謝の気持ちで一杯です。早く以前の穏やかな里に還ります事を願って居ります。
 第一回目のつぶやきが悲しい出来事とはなんともやるせないです。正月に向けて気持ちを入れ替えて前向きに行きたいと思います。

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