二上神社にまつわる言い伝えや様々な面白い話などをご紹介します。

修理固成

二上神社の御祭神、伊弉諾尊.伊弉冉尊は神話で伝えられている神様です。
神話はおとぎ話だという人もいますけど確かに現実的では無い事も書かれていますがそれは全てでは無いでしょう。寧ろ史実に比喩や擬人などの表現を加えて作られていったと言うほうが正しいのかもしれません。代表的な書物に「古事記」「日本書紀」が挙げられますがそこには多くの神々が登場します。其々に役どころがあり事象の成り立ちを司るものとして現れます。更にその神々の言動により世の中の理や教えが盛り込まれているのです。長い歴史の中で一つの国としてまとまって行く過程で起きた出来事は、様々な困難や障害があったに違いありません。そこから学んだことを後世にしっかり伝えるために神々(先人たち)の教えを綴ったのが神話なのだと私は思います。日本の神々はつまり私たちの祖先なのです。
”親の言うことを聞きなさい”よく耳にしますが、将に神々の教えこそ”親の言うこと”なのです。神武天皇は「八紘一宇」という言葉を残されました。ざっくり砕けて言うと天皇も庶民も皆一つ屋根の下に生きる仲間である。という意味です。戦後この言葉は誤った解釈のもと使われてしまったことは非常に残念な事です。上下関係は確かにありますがそれは支配とは違ったニュアンスで使われています。つまり肇国の時点で王は支配するものではないと言う思想のもと日本は始まったのです。世界中の多くの国が王は支配し国民から搾取する事が当然の如く行われて来ましたが、それを妬む勢力によってやがて滅ぼされることになります。中には何度も王族が入れ替わった国も在ります。日本は神武天皇以来万世一系で現在まで続いております。
国の王が滅ぼされずに続いてゆく事は簡単な事では無いでしょう。確かに日本の天皇家も決して安泰であったわけではないですが、結果的に民によって守られて来ました。神と繋がっていることも大事な要素だったかもしれませんが、何より大事な教えがあったからだと思います。代々受け継がれてきた”親の言う事”つまり神道の教えとでもいうのでしょうか、神代の人々は其れを神話として伝えてきたのです。鶴の恩返しや浦島太郎のような昔ばなしにも実は神話の要素がふんだんに盛り込まれています。
そして「修理固成」ですが将に全ての神話の一番最初に発せられる言葉です。つまりこの言葉からすべての事柄が始まったと言っても過言ではないのです。始まりの内容を簡単に説明しますと、世の中が天と地に分かれた時、高天原(たかまがはら)と言う天上の世界に天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)が現れました。それから更に四柱の神が現れました。この五柱の神を別天神(ことあまつかみ)と申し
ます。更に國之常立神(くにのとこたちのかみ)が現れ更に六柱の神が現れ、その七番目の神こそ伊弉諾尊・伊弉冉尊なのです。國之常立神から伊弉諾尊・伊弉冉尊までの神を神世七代(かみよななよ)と申します。現れた多くの神々はその後姿を隠してしまいますが、最後に現れた伊弉諾尊・伊弉冉尊に対して詔(みことのり)を下します。

「是のただよへる國を修理固成せ」(このただよへるくにをつくりかためなせ)

文字通り何もなく漂っていた世界を形あるものにして行く事を指しますが、もう一つこの言葉には別な意味も含まれています。国を形成して行く過程で、神々の導く世界を創り上げ皆がその世界で幸せに暮らせることも唱えています。つまり日本民族形成の柱になっていて、この言葉からすべてが始まったと言っても過言では無いのです。日本民族は神道の教えを基礎として仏教や様々な宗教教えを取り入れ現在に至ります。他国の宗教でも良いものは取り入れ独自に発展してきた国で世界でも稀な国だと思いますが、その基礎はやはり神々の教えである神道がしっかり息づいているのです。何千年なのか、何万年なのかは定かではございませんが、太古の昔に発せられたこの言葉は寧ろ現代人にこそ相応しい言葉ではないでしょうか?今は国単位ではなく地球規模で物事を決めなければいけない時代です。国連という組織がもっと役割を果たさなければいけない時代だと思います。世界中の国々で自国が主導権を握りたいと思うのは当たり前ですが、排他的な教えや宗教は受け入れられないでしょう。今こそ日本の神道理念が重要になってくるのだと思います。世界中の人々も八百万の神々です。今こそ地球人として世界中の人々が争わず平和に幸せに暮らせることを願います。

そんな世の中をつくりかためなしたいものです。

御神木の大銀杏

二上神社の御祭神伊弉諾尊、伊弉冉尊は夫婦の神様で子作りに励みました。オオヤシマ(日本列島)から始まり沢山の神々を御産みになられたのです。そして不思議な事にこの大銀杏には男女の印が現れております。夫婦和合、子孫繁栄の御神徳が有るとも言われております。

 もう一つ云われがありまして、その昔杖をついた老人がお参りに来たそうです。長い階段をゆっくり杖をつきながら登り切り拝殿の前で柏手を打って拝礼したそうです。すると突然体が軽くなり、杖がなくても歩けるようになったそうです。境内の片隅に杖を立て掛け暫く散策した後意気揚々とその老人は帰って行ったそうです。そうです老人はあまりにも嬉しくて杖を忘れて帰ったのです。それから月日は流れ忘れられた杖は地面に根を張り枝葉が出て現在の大銀杏になったそうです。

 まるでおとぎ話のようですが、実は本当に起こりうる出来事なのです。何故なら私が実体験したからなのです。正にこの大銀杏の実を私の父が畑に撒いていたのですがあまりにも沢山の実を密集して撒いたものですから10年程で木と木が競り合い窮屈になりました。仕方なく間引く事になったのですが、10年もの間放置された畑のイチョウは引き抜く事は出来ませんでした。根元から切って間引く事になったのです。勿体無いですが仕方ありません。切ったイチョウは大人の腕の太さになっていました。長さ2メートル程の丸太で何かに利用出来るかも知れないと思い車庫に立て掛けて置いたのです。それからどれ位の月日が経つたか分かりませんが春が来て山の木々が芽吹く頃なんと車庫に立て掛けて置いたイチョウの丸太から新芽が出たのです。勿論車庫はコンクリートの床で大雨が降っても床が濡れる事は無いのです。全く水気のない車庫で半年位放置されたイチョウから新芽が出たのです。その生命力に唯々驚かされました。
 境内の大銀杏も生命力の強い神秘的なイチョウです不思議な力を与えて下さるかも知れません。

鶺鴒岩

鶺鴒(セキレイ)と言うのはスズメよりやや大きくて尻尾の長い鳥です。水辺の近くの崖などに巣を作り、道端などにも生息するごく身近な野鳥です。岩の上や道端に止まっているときは常に尻尾を上下に動かす動作をします。

 その昔、伊弉諾、伊弉冉の尊は夫婦となり子供を作る事になりました。しかし創始二人の神には親が居ませんつまり男女の営みを知らなかったのです。どうしたものかと悩んでいたところに二羽の鶺鴒が飛んで来ましたそして岩の上に止まった鶺鴒は腰を上下に動かし子作りの方法を教えたと言います。そこから二神の国生みが始まったと言われています。古事記日本書紀には載っていないもう一つの国生み神話です。

 二上山の山中には鶺鴒岩という岩があるそうです。実は私も村の人もその場所を知りません今はその伝承だけが残っています。

神社の位置関係

神社の鎮座地は特別な意味があるとも言われています。大昔は占いなどで場所の選定が行われたとか言われておりますが、ここ二上神社も面白い事が判明しました。
 二上山は男岳女岳二つの山が御神体としてそびえております。その山頂を結ぶ線は南西(男岳)から北東(女岳)にかけて伸びています。実は二上神社の御社殿はその線上に有るのです。しかもそのまま北東の方角を向いています。更にその線上には摂社の乳ヶ岩屋が有り遥か先には高千穂神社、そして天岩戸神社が有ります。反対側には南西の方角に五ヶ瀬町の中登神社が有り更にその先に鞍岡の祇園山が有ります。
偶然なのかはたまた意図的に作られたのか分かりませんが何かしらの意味があってその場所にお宮が作られたのだと思っています。
気の流れとか言われますが、神社間には人間には分からない不思議な気の流れが有り繋がっているのかも知れません。
 
 摂社の乳ヶ岩屋はお乳の出ないお母さんが岩清水を飲んだところたちまちお乳が出るようになったのでその名が付いたと言われていますが、もう一つ鬼八のすみかだったとも言われています。鬼八はこの里を荒らした悪い鬼として退治されましたが、その鬼八を退治したのが高千穂神社の御祭神の一神ミケヌノミコトです。まるで再び鬼八が現れないように乳ヶ岩屋を挟み込むように二上神社と高千穂神社で結界を張っているようにも見えます。

神社の不思議な位置関係のお話でした。今はインターネットで地上の画像を見る事が出来ます神社の場所を探して見てはいかがでしょうか。

階段のお話

神社に参拝する時長い参道や階段が大変だと思った事はありませんか。車で近くまで行けたら良いのにと思った事がありませんか。二上神社も今は車で境内迄行く事が出来ます。最近は簡単にお参りが出来て便利な時代です。昔車も道路も無かった時代人々は歩いて参拝していました。それでも最後は長い階段を登らなくては拝殿迄行く事が出来ませんでした。何故階段があるのだろう。よく考えたら不思議です。二上神社の階段は200段余りあって150段程登った所に社務所があり踊場になっています。残り50段程で社務所からだとそれ程苦にならない段数です。大昔と言えども社務所迄道を作ることは可能です。何故こんなに長い階段を作ったのでしょうか、しかも重たい石を積み上げて。
神社は鳥居を潜った瞬間から参拝が始まっています。既に参拝者は大前に立っているのです。その場所で拝礼して帰っても構わないでしょうが、それでは参拝者は気がおさまらないでしょう。より近くで拝礼をされたいはずです。しかしそこには長く急な階段があり行く手を阻みます。この長い急な階段を登った者には神様も何かしらのご加護を与えて下さるに違いありません。

 階段の長さには大神様の偉大さ尊さそして御神徳の大きさが込められていると思います。更にその階段を作った人々の苦労と思いも込められているでしょう。階段を登る事は大変ですが俗世界からの離脱、正に禊(ミソギ)の意味もあるのかも知れません。少しずつ心身を清めて行く作業です。神が偉大であればある程その長さは長くなるでしょう。
二上神社は山が御神体です。山岳信仰の神社でもあります。元々山頂に修験者が登り祈りを捧げていました。今は3合目付近に社殿が建てられ参拝が出来ます。それが現在の二上神社です。

杉(スギ)の木のお話

杉の名前には諸説ありますが、真っ直ぐに伸びる木と言うところから(マッスグキ)(スグキ)(スギ)になったとも言われています。真っ直ぐに伸びて高く大きく成長する杉の木は神が降臨する目印として又依代として神社の境内に植えられるようになったとも言われています。もう一つ神社の境内に杉が植えられている理由が社殿の御用材の為とも言われています。元々御用材として植えられた杉が数百年経つと御神木と呼ばれるようになって中々切れなくなってしまった神社も多いのでは。

境内には沢山の杉の木があり、その中にひときわ大きい杉が十数本あります。通称地杉(ジスギ)と呼ばれるもので日本古来の杉の種類です。実は杉の品種は一種類しかないと言われています。では何故いろんな名前の杉があるのでしょうか。
元々自生していた杉は地杉ですが非常に成長が遅くよく見ると真っ直ぐでは無いのです。素人が見ると真っ直ぐに見えますが、実は微妙に曲がっています。数百年経つとその曲は殆ど分からなくなりますが、そんなに待って入られません。そこで江戸時代の人々は品種改良を始めたのです。方法はいたって簡単で成長の早い物を選りすぐるやり方です。杉は枝を地面に挿しておけば根が出て成長します。その苗木から成長の早い物を選んで更に成長の早い物を選んでいくのです。他にも真っ直ぐに伸びる物、必要の無い枝が細い物、などなど色んな条件を満たし苗木を選りすぐり何十年もかけて安定した性質が確立された時品種として認定されるのです。有名なところでは吉野杉や日田杉、飫肥杉などがあります。全国に植林されている杉の殆どがこうして改良された杉です。只これらの杉は全て枝から成長した杉です、つまりクローンなのです。クローンは気候変動に弱いと言われていて地杉の様に千年位生きるのか分かっていません。
実は境内の地杉もクローンです。只これらの木は本来持っている杉の性質を受け継いでいます。たくましい枝、何処までも這って行く根、真冬でも青々とした葉を茂らせ風雪に耐えています。地杉の姿は見る者を圧巻し元気を与えてくれます。

二上神社の階段の両脇には吉野杉が植えられています。地杉との違いを見比べて見てはいかがでしょうか。

社殿の彫刻

二上神社の社殿には沢山の彫刻があります。その中でも一番面白い彫刻が本殿向かって右側の上部にある彫刻です。御祭神の伊奘諾、伊弉冉の尊の彫刻ですが、手前に鳥がいます。伊奘諾、伊弉冉の尊は天神七代の最後に現れ『国産み』をなされる神様ですが、先づ天の浮橋に立って天のヌ鉾を海中に差しかき混ぜて持ち上げたところ鉾先より垂れた潮が固まって出来たのがオノコロ島です。今度はその島に天の浮橋を渡って降りて行き、『国産み』が始まるのです。彫刻は天の浮橋を渡って降りていく様子を描いたものですが、当初は手前の鳥の彫刻は無かったのだと思われます。お二人の姿を彫り終わった時にはたと気づいたのでしょう。尊い神様のお顔を直接見てしまっては恐れ多いと、それで後から鳥の彫刻が付けられたのだと思われます。
見えそうで見えない絶妙な位置に鳥の羽根があり面白い彫刻となっています。

結界のお話

鳥居、狛犬、祠などがありますがそれらは結界の意味合いがあります。鳥居は一番わかりやすい結界の一つで俗世界と聖地を区別するもので、これから先は神聖な場所である印です。それが結界でもあるのです。
狛犬や石の祠が対で参道沿いにあるのも結界を意味します。少しずつその結界を通って行くことで身も心も清められて行くのです。二上神社の狛犬は階段を上りきった所に有ります。実は以前向かい合っていたそうですが、昭和三十年代の大造営の時前向きに変えららたそうです。意図的になのか謝ってなのかは分かりませんが先先代が何かしらの思いがあってそうしたのでしょう。最近あちこちの神社を参拝して気になったのが、向かい合っている狛犬なのに何故か顔だけ前を向いていることです。結構古い物もあるのでしょうけど、最近の新しい狛犬はその傾向が強いです。
遥か遠くを見つめる狛犬が、如何にも現代的な狛犬の走りにも見えます。

昭和の大造営

この写真は昭和20年代だと思われます。昭和30年代に行われた大造営は拝殿、社務所、階段など大規模な新築改修工事が行われました。写真をよく見ると御本殿の下の石垣がありません、実は画面左側の拝殿は現在の稲荷社です。この建物を移動して新しい拝殿が作られたのです。その時問題が起きたのです、新しい拝殿の設計図では御本殿と同じ高さになってしまうのです。そこで御本殿を持ち上げ下に石垣を作り新しい拝殿とのバランスを図ったのです。因みに御本殿前の石灯篭にご注目ください、この石灯篭は全く動いていません。御本殿を持ち上げる時になんと後ろにも移動させていたのです。現在の写真と見比べて見るとよく分かります。
一大事業が行われる前の貴重な写真です。

乳ヶ岩屋(ちちがいわや)

二上神社より北東に約1キロメートル位の所にある聖地で、高千穂郷八十八社にも名を連ねる重要な宮地です。社殿鳥居等は無く大きな岩屋が有ります。名の由来はその昔お乳の出ない母親がこの岩屋の岩清水を飲んだところお乳が出るようになったところから乳ヶ岩屋と呼ばれるようになったそうです。
二上神社のお膝元にある集落『小谷内』から隣の集落『三原尾野』へ続く乳ヶ岩屋林道の途中に大きな岩壁が見えて来ます。そこから山を100メートル程登ると乳ヶ岩屋に辿りつけます。ただ、その山道は未舗装で急な坂なのでサンダル履きでは登れません。
乳ヶ岩屋は垂直に切り立った大きな岩屋で地面の境が洞窟になっています。人1人がやっと通れる位の洞窟が斜め下に続いていますが、未だ未踏の洞窟で過去には数メートル入った者が居たそうですが途中から真下に穴が続いているので諦めたそうです。
乳ヶ岩屋は古い伝えに高千穂郷を荒らした鬼八(霜宮鬼八荒神)の棲家だったとも言われています。まるで鬼でも出てきそうな神秘的な洞窟です。

小谷内(こだにうち)

二上神社のお膝元の村を小谷内(こだにうち)と申します。深い山あいの小さな集落です。
以前この村の名前は子種落(こだねおち)と呼ばれていたそうです。

『日向なる二上嶽のふもとにて乳ヶ岩屋に子種まします』

夜神楽で歌われる神楽歌の一首ですが、村の地名を物語る歌です。子種が落ちる(降臨する)意味で子種落と名付けられたそうです。伊弉諾、伊弉冉の尊二神が国生みを行う神話とも繋がる興味深い地名です。
二上神社は子宝の神でもあります。

二上稲荷神社

二上神社御社殿の左側に御鎮座していますお稲荷さんは元々は二上神社境内地脇の神塚山に居りました。ある時(拝み屋さん)と呼ばれる霊媒師が現れそのお稲荷さんの御魂を分けて神塚山の下で祀り祈祷を行なっていたそうです。ところがある日村人が近くで焚き火をしたところ煙に巻かれてお稲荷さんは二上山山中に逃げ込んでしまいました。それ以来拝み屋さんは去り、稲荷祭は行われなくなってしまいました。
今から35年ほど前二上山に林道が抜けました。お稲荷さんが祀られている近くに林道が出来た為当時の宮司、総代で協議し、お稲荷さんが荒らされてしまい兼ねないとして二上神社境内に連れて帰る事になりました。そうして境内階段下の空き地に稲荷神社を建設する事になったのです。氏子崇敬者の奉献を賜り稲荷神社が完成し御魂遷しを経て毎年旧暦初午に稲荷祭が行われてきました。
私は疑う事なくそのお祭りにご奉仕してまいりましたが、ある年の稲荷祭の準備の時御神像が黒く朽ち果てている事に気付きました。哀れな姿を見て落胆してしまいました。もはや此処に神(稲荷神)は居ない。
実は稲荷祭は当初村内外から多くの参拝者が訪れるお祭りでしたが、年々参拝者も減り行く中私は一つの疑念を抱くようになりました。
父、宮司も歳とともに視力が弱り足腰も弱り摂社のお稲荷さんは全て私だけでご奉仕するようになり数年が経ちました。私は意を決してお稲荷さんの遷宮を申し出たのです。場所は二上神社御本殿です。実は元々御本殿にもお稲荷さんが祀られているのです。御魂分けした分霊を元に戻す分けです。当時はそれが一番良いと思っておりました。それから数年は二上神社社殿にて初午祭を行なっていたのですが、そこはやはり二上神社です。伊奘諾、伊弉冊の神様です。どうもお稲荷さん祭りを行うことに違和感を感じる様になりました。果たして二上稲荷どうしたものか。
又新たに稲荷社を建てるのも難しいですし、場所も予算もありませんでした。何より氏子さんに申し訳が立ちませんでした。
私は実を言うと以前から旧拝殿が気になっていました。その建物は200年前に作られたもので、移築後は神楽殿と名を変え存在していたのですが其処で神楽が舞われた事は無く、お祭りの時着替え場でしかありませんでした。
此処をお稲荷さんにしたらどうだろうか?
そう漠然と思っていたところ不思議な事にある参拝者がお稲荷さんの話を始めました。その人の話によると、「ある知人がお稲荷さんが非常に居心地が悪く本殿から出たがっている、小さな祠でも良いから御本殿の大神様をと別けて欲しい。」又、それは境内左側に強く感じるとの事。そう話した参拝者は始めてお会いする方で二上神社の実情もお稲荷さんの事も何も話していないのです。更に御本殿内のお稲荷さんの御座は向かって左端です。なんとも不思議なお話です。物事は迷信に惑わされることのない様にしなければ失敗や間違いの元になります。再び過ちを犯さない様に用心しなければなりません。しかし私の中で心は決まっていました。
神楽殿(旧拝殿)を稲荷社にする。
ただ神楽殿は老朽化の為屋根のトタンが腐食し、御神像を納める場所も壁板がスカスカで、ある程度の修復が必要でした。ところが、まるで最初からわかっていたかの様に、屋外トイレの建設が決定したのでその工事と合わせて稲荷社修復も行う事で話がまとまり、全てが順調に事が進んで行ったのです。
正しき流れは労せずとも進んで行くものなのか。
斯くしてその参拝者が来て半年もせず初午祭が旧拝殿の新しいお稲荷社で斎行される事となったのです。
何度も遷宮を重ねてきた二上稲荷様此処が安住の地になって欲しいと願うばかりです。

注連縄

高千穂町の神社は全国的に珍しく色紙の紙垂が下がっています。神社によって多少違いがありますが緑、白、赤と三つの紙垂が下がっているのが二上神社の特徴です。緑色は昔は青と呼ばれていました。つまり緑は青なのです。
向かって右側が位が高く必ず右側に青が来ます。青は天を表し赤は地を表しています。他の神社には無いですが二上神社には真ん中に白の紙垂があります。これは人を表しているそうです。つまり色紙の紙垂は天地人を表現しているのです。さらにワラの下りをよく見ると、右から七本五本三本になっています。これも位の高い右から七五三と並ぶ決まりです。ワラ下りには諸説あるそうですが、ある説では神々の数を表しているとも言われています。天神七代地祇五代日向三代と天御中主尊から続く神々様が表わされています。
この注連縄は元々夜神楽の舞台神庭に張り巡らされている注連縄が起源と言われ、転じて御社殿にも張られる様になったそうです。
高千穂の神社を巡りその違いを見つけてみませんか。

天孫降臨

天孫降臨の地は諸説ございますが、ここ二上山もその一つに挙げられています。しかし二上神社には降臨された瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)は祀られておりません。
これはあくまでも私の仮説ですが、天孫降臨にまつわる二上神社のお話をしてみたいと思います。
「神社の位置関係」でも言いましたが二上神社、二上山更に高千穂神社はほぼ直線で結ばれています。二上山の裏側には中登神社(ちゅうのぼりじんじゃ)という神社があり其処もその線上にあります。中登神社の名の由来はちほ登りから来ていると言われていますが、当二上神社の別れ宮です。瓊瓊杵尊はその中登神社の方から二上山男岳に登り山頂から女岳を臨み、更にその先に広がる場所を良い場所として宮居を構え高千穂宮を作ったのです。現在高千穂町の三田井の中心部に高千穂小学校があり、その昔その場所に高千穂宮が在ったと言われています。降臨したこの地をちほの郷と名付け安住の地と定めた瓊瓊杵尊は越えてきた二上山に尊い御祖の神伊奘諾、伊奘冉の神を見出しこの二つの山に御霊招き祀ったのです。
二上山の天孫降臨伝承では「クシ日二上の峰に天下り」と伝えています。まさに高千穂の宮は午後2時ごろ太陽の光が二上山男岳女岳をくしさす場所に在ります。二上山に降臨したと言うより、二上山を越えて降臨したが正解かもしれません。そしてちほの里に越えるために登った山をちほ登り岳、後に中登岳と呼ばれる様になりました。
他の天孫降臨の伝承地は瓊瓊杵尊が御祭神としてお祀りされています。当然といえば当然でしょう。只、降臨した神が自らを祀る事は無いことも無いかもしれないですが、どちらかと言うと後世の者が祀ったと言う方が理にかなっています。瓊瓊杵尊はこの地を見出すに至った尊い御山、「二上山」に神聖な神の存在感じたのです。その二つの山は御神勅を下された天照大御神と言うより、更にその思いを寄せて国生みをした尊い神「伊弉諾尊」「伊弉冉尊」に見えたのでしょう。

全ての事はこの諾册両神から始まっています。諾册両神はこれから始まる御代を想い描きながら多くの神々を生みました。そして遂に尊き天照大御神を生み現れるのです。天照大御神は諾册両神の想いを具現化するため豊葦原瑞穂国へ瓊瓊杵尊を使わせたのです。
かくして御祖の神々の想いを携え天孫降臨のは成し遂げられました。
二上神社は元は二上山山頂付近で祭祀が行われていましたが、山深く雪も積もる為、里近くに遷宮されました。そのとき分社され現在の二上神社と中登神社が創建されました。場所の選定には瓊瓊杵尊が辿った二上山の山頂を結ぶ線上で、それは高千穂神社にも繋がる神聖な神の道筋です。
これはあくまでも私の仮説でしかありませんが、つじつまがしっかり合っています。「クシ日二上の峰」と高千穂神社と中登神社、そして二上神社が全て二上山線上にある事、二上神社の御祭神が瓊瓊杵尊ではない事など。

不思議な事に令和元年五月一日一つの絵が奉納されました。静岡の画家の方から奉納頂いたのですが、その絵の題材はまさに天孫降臨なのです。御祭神は伊弉諾尊、伊弉冉尊なので「国生み」神話が題材になるものと思っていましたが、その画家さんから此処は天孫降臨の伝承がある事を確認して来ました。最初は不思議に思っていましたがむしろそれが神様の導きのように思えてきたのです。
写真が奉納された絵ですが、まさに先程のお話を表現している事に驚きました。二上山を越えて降臨してくる瓊瓊杵尊御一行が描かれています。

見えない力が働いているかの様に令和の新しい御代に二上神社に天孫降臨の絵が御奉納されました。

カムロギ・カムロミ

今回は「カムロギ・カムロミ」というお話
注)記事は私の主観です。
「高天原に神留まります皇が親神漏岐神漏美命以ちて我が皇御孫命は豊葦原水穂国を安国と平けく知食せと」この文章は奈良時代の中臣氏がつくった祝詞の冒頭に出てきます。中臣氏は後に藤原を名乗り天皇家とも深い繋がりを持ち宮中祭祀・神社祭祀を司っていきます。その中でも特に「大祓詞」という祝詞は現在の神社祭祀で重要な祝詞として伝えられていて、六月三十日の夏越しの大祓、大晦日の大祓式では全国の神社で奏上されています。この文章を簡単に説明しますと{高天原に居ます天皇の祖神様カムロギ・カムロミのめいをうけて、わが皇御孫命は日本を安らかな国に広く統治しなさい}という内容になります。この中のカムロギ・カムロミとは具体的な神様の名前ではなく、男の神様・女の神様という意味です。近年の祝詞でよく聞くのが「掛けまくも畏き○○神社の大前に恐み恐みも申す」というフレーズですが、これは祝詞の冒頭の言葉で、式典や御祈願に参列したことがある人は良く耳にすると思います。簡単に訳すると{言葉をお掛けすることも恐れ多い大神様に申し上げます}という事です。現代の祝詞と中臣の祝詞は冒頭部分が若干違っています。古代は神々の歴史、成り立ちを申し上げることから始まるのが常套だったみたいです。高天原から天皇を中心とした大和の国創始に繋がる神々の歴史を申し上げることで神々に感謝の誠を捧げ讃えるところから祝詞は始まります。そこでこの中臣の祝詞に登場する神様カムロギ・カムロミは一体誰を指すのでしょうか?
一番解りやすいのは伊弉諾尊・伊弉冉尊だと思います。男女、夫婦の神様で全ての創造主的な存在ですから自然とこの二神が頭に浮かぶと思います。ところがこの祝詞には続きがあります。「中略、、、我が皇御孫命は豊葦原水穂国を安国と平けく知食せと、、、」この中で「我が皇御孫命」という表記が議論されています。豊葦原水穂国を治めなさいと言ったのは実際には天照大神で、言われたの瓊瓊杵尊です。つまり天照大神が瓊瓊杵尊に向かって言った言葉なのです。文章全体を単純につなげて解釈するとカムロギ・カムロミのカムロミは天照大神ということになり、伊弉諾・伊弉冉尊ではないということになります。ではカムロギは誰なんでしょうか?一説には高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)のことを指すともいわれています。皇御孫命に勅命を下したのは祖父祖母である天照大神と高皇産霊尊でなければ辻褄が合わないという事でしょうが、はたしてそうなんでしょうか?現代の孫とは祖父祖母から見た解釈で表しますが、古代は世継ぎの事を指しているのではないかと思うのです。詔を受け継いでゆく代々の嗣に対して使われたのではないかと解釈すると、やっぱり伊弉諾尊・伊弉冉尊がカムロギ・カムロミである方が私は自然だと思うのですが如何でしょうか。
確かに天照大神はこの世のすべてを照らす存在ですから偉大で尊い神様です。もともと天皇が祀ることを本義としてきましたが、あまりにも恐れ多いので別宮を建てお祀りすることになった経緯があり、それが現在の伊勢の神宮です。神社界でも天照大神を祀る神宮を本崇と仰ぎ、特別な存在と位置付けられています。
しかし、天照大神からすべてが始まった訳では無いのです。もとはといえば神代七世と呼ばれる神々から全ての事象が始まったというのが正しいのかもしれません。只、そのうちの六代の神々は姿を隠してしまいます。神代七世の七番目に現れた男と女の神様それが伊弉諾尊・伊弉冉尊で、その二神は姿を現し具体的に物事を始めて行くのです。つまり形ある存在としての一番最初の神といえるでしょう。この二神から始められた国造りがすべてのはじまりなのです。
そこで「皇が親神漏岐神漏美命・我が皇御孫命」について私なりに解釈してみます。神社界でも諸説あって具体的に誰だとは言い切れませんが、私が思うに先ず{皇が親}の部分は天皇の親とも解釈できますが、ここでは直の親ではなく御祖、つまり祖先を指す言葉とするならば天照大神ではないと考えました。次に神漏岐神漏美命(カムロギ・カムロミ)の部分ですがこちらも天照大神と断定できません。どちらも伊弉諾尊・伊弉冉尊の可能性を含んでいてしっくりきます。次に{我が皇御孫命}は天照大神の可能性が大です。異論の余地がありません。ということは皇が親は伊弉諾尊伊弉冉尊で我が皇御孫命の我がは天照大神ということになります。つまりこの二つの文章の神は同一ではなく先祖神の伊弉諾尊伊弉冉尊と、祖母の天照大神のことを指していると思います。すでに言ったように一番最初に物事を起こした伊弉諾尊伊弉冉尊を親として考えると始祖の事を指す言葉だと思うのです。
この文章は{高天原の神父母(伊弉諾尊伊弉冉尊)の想いを伝える、天照大神の世継ぎ達よ日本を安らかな国に統治せよ}と解釈するのはいかがでしょうか。かなりしっくりくると思います。では何故伊弉諾尊伊弉冉尊と具体的に名前を言わなかったのでしょうか。これは古代言葉には言霊という魂、力が備わっていて安易に神の名前を言うべきでないとする思想があったからではないかと思います。ですから天照大神も名前が出されていません。カムロギ・カムロミと申し上げれば敢えて名前を言わなくても尊い始祖の神様とわかるのでしょう。そして我が皇御孫といえば天照様のおっしゃる言葉だとわかり、この文章で尊い神様を慕っていることが十分伝わってくるでしょう。
ちょっと話が逸れますが、イザナギ・イザナミという名前について私はちょっと疑問を抱いていました。イザナとは誘う(いざなう)という意味だそうですが、何を誘ったのかと考えたのです。伊弉諾尊・伊弉冉尊の跡継ぎは天照大神ですが、古事記では伊弉諾尊が禊をしたときに現れます。日本書紀では夫婦の子として表記されているものもあります。天照大神が伊弉諾尊・伊弉冉尊にいざなわれたという表現は何処にも出てきません。どちらかというと勅命によってその遺志を継ぎ天下に君臨したのが天照大神です。勅命をいざないと解釈することもありなのでしょうが、どうもしっくりこないのです。そこで考えたのですが、いざなうという表現がしっくりくる場面が一つだけあったのです。それは瓊瓊杵尊が降臨したとき高千穂の郷にいざなった二つの山の存在です。そう二上山です。瓊瓊杵尊は高千穂の地にいざなっていただいた二つの山を崇拝し二上山と名付け伊弉諾尊・伊弉冉尊をお祀りしました。伊弉諾尊・伊弉冉尊という神名が元からあったのか定かではありませんが、そういう事例はあります。例えば神武天皇は元は神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)という名で、後の民によって神武天皇と呼ばれるようになったという経緯があります。イザナギ・イザナミと名付けたのは、もしかすると瓊瓊杵尊ではないのでしょうか?高千穂へいざなった御祖神カムロギ・カムロミをイザナギ・イザナミと名付けたのが瓊瓊杵尊であったなら、全てが理解できるのです。神名はその働きによって付けられる事も多々あります。何かをいざなったからイザナギ・イザナミと名付けたとしたらそれはもう瓊瓊杵尊以外にあり得ないとも言えます。
カムロギ・カムロミはイザナギ・イザナミのことを指しイザナギ・イザナミはカムロギ・カムロミのことである。天孫瓊瓊杵尊はカムロギ・カムロミをイザナギ・イザナミと呼び崇拝したのかもしれません。
高千穂地方を中心に興梠(コウロギもしくはコウロキ)という苗字があります。一説にはカムロギが語源であると云う説があります。

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