御神体   二上山(ふたがみやま)

神宿る二上山は古来女人禁制の霊峰と崇められ高千穂の神奈備山として人々に敬愛されています。この山の女岳3合目付近に二上神社があります。山岳信仰の山でもあり、その昔修験者が修行を重ねていたと伝えられています。明治時代に国土の測量が行われた際、三角点埋設のため男岳山頂を掘ったところ50センチほどの五輪の塔が出土したそうです。しかしその五輪の塔は現在所在不明です。一説には当時管轄していた鹿児島県の職員が持ち帰ったとも言われています。
写真向かって右が男岳、左が女岳見る位置によってその姿を一変させる不思議な山です。一番綺麗に見えるのは高千穂町の運動公園付近です。南西の方角に見えます。

由緒と沿革


 二上神社は二上山を御神体として伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)を御祭神として祀る神社です。

 高千穂の神奈備山(かんなびさん)、神宿る山として信仰されている二上山は高千穂町と五ヶ瀬町の境界に位置し、南西の男嶽、北東の女嶽からなり、当社は女嶽北東に鎮座する。古来より霊山として信仰のある二上山の山中に二上大明神の祭祀場があったが山が深く冬は雪が多いため氏子の話し合いで東と西の山麓に降ろして祀り、醍醐天皇の御代昌泰元年(八九八年)に現在の地に創立されたと伝えられ、千百二十年の歴史がある。

 二上神社は元は一つであったが八九八年の遷宮以来分社され別宮が造られた。北東の二上神社、南西の中登神社(ちゅうのぼりじんじゃ)に分かれた。その後中登神社の御霊は、五ヶ瀬町内の数社を統合合併して新たに造られた三ケ所神社へ遷された。また、高千穂町大字押方に嶽宮神社(たけみやじんじゃ)、五ヶ瀬町大字桑野内に桑野内神社(くわのうちじんじゃ)が創建され現在に至っているが、現在はそれぞれ独立した神社として運営されていて直接的な関りは無くなっている。

 二上神社はこれらの神社の中で唯一の本宮であり過去にも未来にも変わることは無い。しかし分社されると必ず起きるのが本宮争いで、過去には当神社も三ケ所神社と本宮争いがあったと伝えられている。これは歴史を紐解けば自ずと解決できる問題である為、程なく二上神社本宮で決着している。
{近年の出来事}
昭和50年代に六峰街道なる林道が二上山男岳・女岳を切り裂くようにつくられた。当時物議を醸した林道は現在でも存在するが度々災害を引き起こし自然破壊が起きている。またその林道を利用して昭和60年代に三ケ所神社が二上山男岳山腹に奥宮なる観光施設を建造している。

 二上山は「日本書紀」に記された天孫降臨の山とも言われ「日向風土記」逸文に出てくる高千穂の二上嶽であると伝えられる。{此山往古より天孫降臨の峯なる事、人の知る所也。然るに、諾册両神を祭りてより、二上大明神と稱することと成りたり。}伊弉諾尊、伊弉冉尊は國土生み(くにうみ)の神と云われ日本の国土や多くの神々をお生みになられた神であり、天照皇大神の御祖神である。



歴史

社殿の創建は昌泰元年(八九八)と伝えられています。更に永正八年(1511)の棟札に『天神七代の末陰陽之ニ宕 伊弉諾 伊弉冉の二神を祀り 大檀那大神朝臣兵部大輔右武 藤原左近大夫廉昌 山之伊賀守治次 十社宣命左衛門太郎乘吉大神朝臣右武建立也』とあり
永正八年に再建された御社殿は今から二百年ほど前(1814年)文化11年に火災で焼失してしまいます。あらゆる物が焼き尽くされてしまい、只一つ大きな素焼きの水瓶のみが残っています。現在本殿内に安置されていますが何に使われた物かは分かっていません。その後再び再建され現在に至ります。

昭和30年代には大改修が行われ拝殿を脇によけ新たに現在の拝殿が作られました。その折御本殿は1メートル程持ち上げ奥にずらして新しい拝殿とのバランスが保たれています。脇に寄せられた旧拝殿は現在二上稲荷神社として残っています。
改修工事は拝殿のみに留まらず、社務所、祓い所、余興殿、倉庫、札所を新設し、更にすり減った石の階段をコンクリートで覆い、参道入り口の大鳥居も作られました。約60年近く前の事業ですがかなり大がかりな改修工事が行われました。その殆どが手作業の人力で行われています。
近年では20年程前に本殿、拝殿の銅板葺き替えがおこなわれています。